2008年10月3日金曜日

物上代位制度の差し押さえの意義に関する最高裁判例の嘘

次のような事例を考える。Aが洗脳情報垂れ流しマニュアル「ザ洗脳」一式を100万円で欲しいと言うので、XがAに直接会って契約書を書き、100万円は後日支払うとの約定の下でザ洗脳を売り渡した。ところがAはそれを読むだけ読んで、Bに150万円で転売し、Bはまだ150万円を払っていない。そこでXはAがBに対して持つ転売代金債権を動産売買先取特権の物上代位権行使として差し押さえ、転付命令を得て、これがBに送達された。ところが、Aは色々なところから借金をしているおじさんであり、その債権者が2名、前記転売代金債権の仮差押命令を取得し、それもまたBに送達されていた。困ったBは150万円を供託し、執行裁判所は、Xと債権者2名を、差押が競合する平等な債権者とみなして、債権額に応じて150万円を按分して配当する配当表を作成した。そこでXは物上代位権の優先権を主張して配当異議の訴えを起こした。1,2審でX敗訴。理由は、民法304条1項但し書にいう差押さえとは、物上代位権の存在を公示するものであり、この公示に先立って債権が差し押さえられている場合には、その物上代位権は他の一般債権者に優先できない。X、物上代位は担保物権に伴う当然の権利であり、同条にいう差押さえは特定性を維持するためのものでしかないというのが担保物権の本質からの演繹的解釈であるから、もとより債権者2名が俺に対抗できるはずがなく、150万円はXが独占できるものであるとして、上告。 動産売買先取特権の物上代位における差し押さえの趣旨につき、最高裁は、物上代位に差し押さえが要求される趣旨は、特定性を維持し、かつ、第三者を二重弁済等から保護することである、としている。しかし、目的物を差し押さえる意味が、その目的物に関係する第三者を保護することである、とするのはいかにもおかしい(普通、差し押さえるのは、自分のためではないか)。このいわゆる第三債務者保護説は、牽強付会である。そこで特定性維持説か優先権保全説ということになるが、優先権保全説は、差し押さえが当該目的物への代位を第三者に優先して行うため、というのは筋が通るが、担保物権の目的物が滅失した場合に担保物権まで消滅すると考え、物上代位制度は価値代替物について代位させることで担保物権者を保護するための特則と考えているのが技巧的であり、おかしい。我妻説(通説)のように、担保物権はその物の価値を把握する権利であるから、物自体が滅失しても、その物の代替物に価値が移っていればそれに当然に代位でき、差し押さえの趣旨は、価値代替物が他者の一般財産に混入して特定性を失わないようにするため、とするのが論理一貫しており、筋が良い。思うに、判例は、具体的結論(動的安全の保護や政治的な要請)を得たいが為に、担保物権の本質から説き起こすのを回避し、しかも趣旨を複数でっち上げて両者を妥協させて誤魔化している。要するにこれは、欲する政治的結論を目指して捏ねくり出した詭弁であり、何ら本質に基づかないご都合主義的な判決である。 結局、他の学説は、背後において、実は債権の静的安全と動的安全が矛盾をしており、判例にいたっては、妥協に妥協を重ねた嘘となっており、矛盾の塗り潰しなのである。これらに対し、通説の特定性維持説は、担保物権の本質から演繹をしており、政治色がなく、これがもっとも優れた説である。

民法478条が示す「法律論」のレトリック性

民法478条は、「債権の準占有者に対する弁済は、弁済者が善意無過失のときは、有効とする」と言っているが、ひどい規定である。まず、債権の準占有者の意味が漠然としすぎているし、解説を見ると、誰が見ても債権者と思える人、などと書いている。しかも、善意はともかく、無過失とは何か。これは、軽過失と重過失に分かれるらしいが、この基準も不明である。さらに、債権というのは、債権者に弁済しなければ無効というのが筋であって、債権者ではないのに債権者に「見える」者に弁済するとなぜ有効なのか。債権消滅の原則からすると完全に矛盾したことを言っている。なぜ民法478条がこのような雑な規定になっているかというと、結局は債権消滅の論理(静的安全)と権利外観法理(動的安全)について整合的な論理が得られていないからであり、このように非常に漠然とした規定のままにしておいて、後で色々に解釈して、裁判所の裁量で公益と私益を妥協させようという腹があるからにすぎない(したがって矛盾の質は民法94条と同じである)。判例は、保険金契約の「契約者貸付」(弁済ではない)の事例にこの条文を応用しようとして、契約者貸付を経済的実質において保険金または解約返戻金の前払と「同視」し、「類推適用」などという怪しいテクニックを使って弁済に契約者貸付を読み込み、さらにこの契約者貸付を受けに来た「詐称代理人」を準占有者に含め、貸付者において「相当の」注意義務を尽くしたときは、というこれまた意味不明な要件をつけて、詐称代理人に対する契約者貸付を無理矢理有効にしたことがある。「同視」「類推適用」「相当な注意」では、論理ではなくて妥協とか日本語のレトリックの次元の問題であり、ああそうですか、というしかない。実はこれは法律論ではなくて、レトリックにすぎないのである。

安全配慮義務の嘘

教育活動の一環として行われる学校の課外のクラブ活動においては,生徒は担当教諭の指導監督に従って行動するのであるから,担当教諭は,できる限り生徒の安全にかかわる事故の危険性を具体的に予見し,その予見に基づいて当該事故の発生を未然に防止する措置を執り,クラブ活動中の生徒を保護すべき注意義務を負うものというべきである。


http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=3713


という判例があるが、あたっていない。なぜなら、自由の論理からすれば、特別の規定なくして相手に対する安全配慮義務は認められないのであって、この判決のように、規定なくして安全配慮義務を認めているのは、自由に反する。もし、教育関連法や学校の規則に部活の顧問が安全配慮義務を負うという規定があれば、それを援用して安全配慮義務を認めることができるが、この判決のように、無媒介に安全配慮義務を認めているのは、根拠が無い。仮に民法1条2項を根拠としても、自由の論理からすると、同条のような漠然とした一般条項により自由に拘束をかけるのは不当だから、同条は憲法に違反し、本来は認められないのである。