2008年10月2日木曜日

法学教室2003年2月号「日本法へのカタバシス」(木庭顕東大法学部教授、ローマ法) No269,p6 同2002年4月号、No260,p6 同2002年5月号、No261,p6 同2002年8月号、No263,p6 同2002年11月号、No266,p6

ここでは誰も政治システムの範型(exemplum rei
publicae)など考えてみたこともないし、又実際にはそれは何ら妥当していないと言う。否、それを追求しなければならないと叫ぶ者がいたとしても決してそのようにはならないのだと言う。そのはずである。「を範型として」というが、範型自体が存在していないのだから。そのようなところでこの組合にだけそのようにせよと言ってもうまくいくはずがない。そこで実際に追求されるのは、ひたすらCONDUCATIOだけである。
神殿や公共広場や立派なマンションを建設するように、一人一人奨励されまたは公的に助成された。進んでする者は賞賛され、愚図愚図する者は懲らしめられた。栄誉を求めて自由競争等が生ずるのもほとんど必然である。雄弁等をむさぼりほしがるようになり、われわれの服装さえ栄誉と混同し、トガもしばしばみられるようになった。おもむくところ、屋根付き遊歩道と浴場と宴会の華美に至った。ナイッフな彼らの間ではこれが文明と呼ばれたが、実は隷従の一形態であった。(「2001年の日本、特にその法について、または潜水航海士ジョヴァンニ・ヴァッラの書簡、三巻」「アグリコラ、21巻」)
ローマの虚ろな都市ほどにさえ形態というものを持たないのである。都市は延々と砂漠のように続き、どこで切れるのかも分からない。およそ社会に基本的な意味というものを発生させる基盤がないのであるから、人々の精神的貧困はどれほどのものか。
ここには実質共和制に近い政体があると言われるが、これでどうして可能であるのか、私は直ちに疑問を持った。ヒッポダモスは都市の形態が深く国政の態様(status
rei publicae)に関わることを洞察した。日本において、市民法にとって致命的なのはあのミレトスのヒッポダモスを知らないことだ。
ここでは、小さな動作(factum)ないし言葉(verba)をそのまま繰り返すだけでよい、ただちに奇跡とも思える驚くべき結果を招くことができる。否、言葉すら要らない、小さな図像(icon)さえ識別できればよい。ただし決して間違えてはならない。何も考えずにひたすら忠実にその通りにするのだ。そこにいかなるヴァリエーションがあっても君は失敗する。(中略)いずれにしても、そこにいかなる隙間も許されず、他方間髪入れず結果が生ずる、という。この無媒介が人々の思考のすべてを支配している。
行為や結果以前に、分解し吟味し省察する、という自由は与えられない。(中略)一体どこにデモクラシー特有の批判と省察の議論の手続きがあるのか。途方に暮れる。
人々は全ての事柄において実際のものよりも代替物を好む。とりわけ似姿(imago)や画像(figura)である。これらを実在であると信じているのである。否、それも当然で、それらは実際に生きているのである。つまり、自発的に動き、働きかけ、恩恵をもたらし、危害を加える。ならばこれらが写し取った相手方の実在の方は全て不要になるのも当然である。
もっと驚くのは犯罪の種類が大変に多いというところである。私は窃盗すら犯罪と考えなかったローマ人の理論的厳密さを賞賛するが、しかしここでは何が犯罪かということについて厳密な思考が行われている形跡がない。
高利貸しに促されると)人々は金銭に困っていないのに借金をするのである。実際、みんな豊かであるから困っているはずはない。しかし、なんと、金銭を消費する競争というものがあり、これが激烈である為に、こぞって高利貸しに殺到するというのである。およそ、競争、特にこの競争は、大変に奨励されている。彼らに与えられる説教の大半はこれに当てられていると言う。

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