2008年10月2日木曜日

時効は自由にとって必要ではない

時効とは自由の必要十分条件ではない。なぜなら時効制度がなくても自由は成り立つからである(債権が10年で消滅時効にかからなくても自由経済は十分成り立つ)。したがって、自由社会では、本来、時効制度はあってはならない。成員が一種の共通目的として厳しく認めた場合にのみ置けるものである。しかも、自由の必要十分条件以上の縛りを設ける場合は、結果として自由を侵害する恐れがあるのだから、慎重でなければならず、軽々に自由を侵害するような立法ができないような仕組みが必要である。ところが日本の憲法判例は、「国が、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るため、その社会経済政策の実施の一手段として、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることは、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、憲法の禁ずるところではない。社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかはない。その判断するにあたっては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であって、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがって、個人の経済活動に対する法的規制措置については、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲とすることができる。」(小売市場距離制限事件、最判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)などとして、国会が広範な裁量権をもって自由を犠牲にする立法をすることができるとしており、これ自体が自由の論理からは認められない。なぜならこれは、国会が様々な資料を集めてそのような立法をすることが適切妥当と判断し、それが異常でなければ違憲にはならないということであり、これでは国会によっていかようにも自由を侵害する立法がなされてしまう可能性があり、厳格性に欠けるからである。また「必要かつ合理的」という抽象的な文言では、自由侵害に対する歯止めとしては相当弱い。このように何ら厳格性も論理性の無い区切りによって自由の必要十分条件以上の制限を設けられるとすれば、自由は保障されていないのも同然である。時効制度なども上の憲法判例の基準にしたがって必要かつ合理的と判断されて置かれているのであろうが、そもそもそのような判断枠組みが自由の論理に反するので無効というべきであるし、その下に置かれた時効制度も正当性があるとはいえない。したがって、時効の論理は破綻しているのである。それにもかかわらずなぜ時効というものが社会と調和しているのだろうか。それは、そもそも憲法の論理が、実は自由でも公共の福祉でもなく、その現実的妥協を正義としているからである。実際に人権公共の福祉は相矛盾するのだから調和するはずがなく、調和しなければ現実的な妥協しかあるまい。時効制度も民法の基底に流れる私益と公益の一種の妥協に出ているものである。ゆえに時効制度の終局の根拠は日本の現実であり、妥協であり、それ以外に何もない。債権の消滅時効が10年であるというのは、何か普遍的な正義に基づくのではなくて、日本の現実の都合なのである。債権の消滅時効を10年とすることが経済産業省と財界の折衝等で勝手に「合理的」と判断されたので10年と定めているだけで、論理にもなっていないものを論理になっていると強弁し、「自由とみんなの幸せを願って10年とした」、とほざいているだけである。自由と公共の福祉を妥協させることで自由を殺していながら、既成事実(小学校から続く滔々たる洗脳教育と矛盾の押し付けと正当化)を援用して、殺していないと強弁しているのが日本の大人なのである。

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