2008年10月2日木曜日

私が最高裁ならこう判例変更する

最判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁は「国が、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るため、その社会経済政策の実施の一手段として、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることは、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、憲法の禁ずるところではない。社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかはない。その判断するにあたっては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であって、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがって、個人の経済活動に対する法的規制措置については、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲とすることができる。」と述べているが、かかる基準は是認できない。理由は次のとおりである。
そもそも、憲法が認めている自由権とは、個々人が自由であるための最低限の条件について立法府において深く思索し、その結果についてのみ立法できるとする厳格性を保障することではじめて成立する。すなわち、立法には、その条件を排除すると個々人の自由が発揮されないという厳格な関係が必要であって、その条件を排除しても特に個々人の自由が喪失されるわけではないと言える立法は、自由権の論理に反し、違憲と解するのが相当である。ところが、前記の最高裁判例は、自由の論理に立脚する憲法が厳に禁じているはずの政策的規制措置について「憲法の禁ずるところではない」と誤解し、しかもその規制措置が合憲かいなかの判断基準について「目的達成のために必要かつ合理的」などという極めてあいまいな言葉を用いており、さらに違憲性判定基準について「立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限る」とするなど、立法に対する違憲性判定基準として厳格性を備えているとは言えない。かかる最高裁判例は、憲法第三章が認めている自由権の論理を正解せず、畢竟破綻した独自の見解を述べているにすぎないのであって、不当であるから、これを判例変更すべきものと認める。
かかる観点から刑法199条をみると、もし殺人を禁圧しないならば、殺人が殺人を呼び、社会は壊滅に至るのであって、所期する自由社会と致命的に矛盾するから、同条の存在は憲法の論理に合致し、合憲というべきである。次に、民法167条の時効制度について考えると、これは強行規定と解されているが、そもそもある債権を何十年にもわたって行使するかしないかは個人の自由であって、これを10年で消滅させなくても、自由社会と矛盾しないどころか、10年の消滅時効を強いることにより、個人の経済の自由が侵害されており、自由と矛盾さえしている。したがって、同条は憲法の論理に背き、違憲と言うべきである。さらに、民法94条2項についてみると、これは任意規定であるが、1項で通謀虚偽表示は無効であるとしておきながら、2項において無効なはずの通謀虚偽表示を有効と扱っている点が矛盾しており、論理が成立していないから、憲法解釈を待つまでもなく当然無効と解すべきである。

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