2008年11月15日土曜日
組合員の持分の処分について
民法第676条1項は、「組合員は、組合財産についてその持分を処分したときは、その処分をもって組合及び組合と取引をした第三者に対抗することができない。」と書いてあるが、この規定は矛盾している。まず、「処分」というのは、同じ民法内に規定されている売買や賃貸借のことであるが、これらはそれぞれの規定によって、形式を履行すれば絶対的に有効となることになっている。もともと、売買や賃貸借というものは、その内部で手続きを完結すれば絶対的に有効となるのが本質であり、別の法律関係との相対関係で効力が左右されるようなものではない。したがって、組合員が組合財産についてその持分を処分すれば、その規定により、その処分は絶対的に有効になるはずであり、「その処分をもって組合及び組合と取引をした第三者に対抗することができない。」というように、組合との関係では処分が相対的に無効となるのは、論理矛盾である。実は、この規定は、組合財産維持という全体的価値観を組合員の持分処分行為という個人的価値観よりも優先するという立法者の主観的判断があり、この結論を引き出すために、本来行うべきでない概念の相対化(売買や賃貸借がある法律的関係との間では無効と同じ結果になるようにする)を行い、これを修飾するために「対抗」という概念を捏造しているのである。そもそも、個人主義的体系に基づく民法においては、売買や賃貸借といった私的処分は、その形式を履行すればその内部で完結しなければならず、何らかの全体的価値の下に掣肘されてはならないのであって、同様に組合契約も個人同士が組合を形成して事業を営むというだけのものであるから、その組合の組合員が組合財産のうちの持分を処分した場合にどのように処理するべきかということは、契約の論理に触れないように組合の論理で整合的に解決しなければならず、いたずらに概念を相対化し、契約の論理をないがしろにして組合の論理を貫徹しようとするのは、結論先にありきのだらしない知的頽廃というほかないうえに、実質的に全体主義を実現しようとしている点で近代民法の基本原則に抵触している。結局、この規定の背後では、組合制度と契約制度が本質的に矛盾しており、その矛盾を犯して実は全体主義を実現しようとするいかがわしい規定であり、公平に合致するものではない。したがって、ただちに改正を行い、矛盾を取り払うべきである。
2008年10月3日金曜日
物上代位制度の差し押さえの意義に関する最高裁判例の嘘
次のような事例を考える。Aが洗脳情報垂れ流しマニュアル「ザ洗脳」一式を100万円で欲しいと言うので、XがAに直接会って契約書を書き、100万円は後日支払うとの約定の下でザ洗脳を売り渡した。ところがAはそれを読むだけ読んで、Bに150万円で転売し、Bはまだ150万円を払っていない。そこでXはAがBに対して持つ転売代金債権を動産売買先取特権の物上代位権行使として差し押さえ、転付命令を得て、これがBに送達された。ところが、Aは色々なところから借金をしているおじさんであり、その債権者が2名、前記転売代金債権の仮差押命令を取得し、それもまたBに送達されていた。困ったBは150万円を供託し、執行裁判所は、Xと債権者2名を、差押が競合する平等な債権者とみなして、債権額に応じて150万円を按分して配当する配当表を作成した。そこでXは物上代位権の優先権を主張して配当異議の訴えを起こした。1,2審でX敗訴。理由は、民法304条1項但し書にいう差押さえとは、物上代位権の存在を公示するものであり、この公示に先立って債権が差し押さえられている場合には、その物上代位権は他の一般債権者に優先できない。X、物上代位は担保物権に伴う当然の権利であり、同条にいう差押さえは特定性を維持するためのものでしかないというのが担保物権の本質からの演繹的解釈であるから、もとより債権者2名が俺に対抗できるはずがなく、150万円はXが独占できるものであるとして、上告。 動産売買先取特権の物上代位における差し押さえの趣旨につき、最高裁は、物上代位に差し押さえが要求される趣旨は、特定性を維持し、かつ、第三者を二重弁済等から保護することである、としている。しかし、目的物を差し押さえる意味が、その目的物に関係する第三者を保護することである、とするのはいかにもおかしい(普通、差し押さえるのは、自分のためではないか)。このいわゆる第三債務者保護説は、牽強付会である。そこで特定性維持説か優先権保全説ということになるが、優先権保全説は、差し押さえが当該目的物への代位を第三者に優先して行うため、というのは筋が通るが、担保物権の目的物が滅失した場合に担保物権まで消滅すると考え、物上代位制度は価値代替物について代位させることで担保物権者を保護するための特則と考えているのが技巧的であり、おかしい。我妻説(通説)のように、担保物権はその物の価値を把握する権利であるから、物自体が滅失しても、その物の代替物に価値が移っていればそれに当然に代位でき、差し押さえの趣旨は、価値代替物が他者の一般財産に混入して特定性を失わないようにするため、とするのが論理一貫しており、筋が良い。思うに、判例は、具体的結論(動的安全の保護や政治的な要請)を得たいが為に、担保物権の本質から説き起こすのを回避し、しかも趣旨を複数でっち上げて両者を妥協させて誤魔化している。要するにこれは、欲する政治的結論を目指して捏ねくり出した詭弁であり、何ら本質に基づかないご都合主義的な判決である。 結局、他の学説は、背後において、実は債権の静的安全と動的安全が矛盾をしており、判例にいたっては、妥協に妥協を重ねた嘘となっており、矛盾の塗り潰しなのである。これらに対し、通説の特定性維持説は、担保物権の本質から演繹をしており、政治色がなく、これがもっとも優れた説である。
民法478条が示す「法律論」のレトリック性
民法478条は、「債権の準占有者に対する弁済は、弁済者が善意無過失のときは、有効とする」と言っているが、ひどい規定である。まず、債権の準占有者の意味が漠然としすぎているし、解説を見ると、誰が見ても債権者と思える人、などと書いている。しかも、善意はともかく、無過失とは何か。これは、軽過失と重過失に分かれるらしいが、この基準も不明である。さらに、債権というのは、債権者に弁済しなければ無効というのが筋であって、債権者ではないのに債権者に「見える」者に弁済するとなぜ有効なのか。債権消滅の原則からすると完全に矛盾したことを言っている。なぜ民法478条がこのような雑な規定になっているかというと、結局は債権消滅の論理(静的安全)と権利外観法理(動的安全)について整合的な論理が得られていないからであり、このように非常に漠然とした規定のままにしておいて、後で色々に解釈して、裁判所の裁量で公益と私益を妥協させようという腹があるからにすぎない(したがって矛盾の質は民法94条と同じである)。判例は、保険金契約の「契約者貸付」(弁済ではない)の事例にこの条文を応用しようとして、契約者貸付を経済的実質において保険金または解約返戻金の前払と「同視」し、「類推適用」などという怪しいテクニックを使って弁済に契約者貸付を読み込み、さらにこの契約者貸付を受けに来た「詐称代理人」を準占有者に含め、貸付者において「相当の」注意義務を尽くしたときは、というこれまた意味不明な要件をつけて、詐称代理人に対する契約者貸付を無理矢理有効にしたことがある。「同視」「類推適用」「相当な注意」では、論理ではなくて妥協とか日本語のレトリックの次元の問題であり、ああそうですか、というしかない。実はこれは法律論ではなくて、レトリックにすぎないのである。
安全配慮義務の嘘
教育活動の一環として行われる学校の課外のクラブ活動においては,生徒は担当教諭の指導監督に従って行動するのであるから,担当教諭は,できる限り生徒の安全にかかわる事故の危険性を具体的に予見し,その予見に基づいて当該事故の発生を未然に防止する措置を執り,クラブ活動中の生徒を保護すべき注意義務を負うものというべきである。
http://kanz.jp/hanrei/detail.html?idx=3713
という判例があるが、あたっていない。なぜなら、自由の論理からすれば、特別の規定なくして相手に対する安全配慮義務は認められないのであって、この判決のように、規定なくして安全配慮義務を認めているのは、自由に反する。もし、教育関連法や学校の規則に部活の顧問が安全配慮義務を負うという規定があれば、それを援用して安全配慮義務を認めることができるが、この判決のように、無媒介に安全配慮義務を認めているのは、根拠が無い。仮に民法1条2項を根拠としても、自由の論理からすると、同条のような漠然とした一般条項により自由に拘束をかけるのは不当だから、同条は憲法に違反し、本来は認められないのである。
2008年10月2日木曜日
実務はご都合主義
法解釈の堕落した姿は、一定の結論をあくまで前提とし,それに役立つ理由付けなら,何でもかんでももちだす解釈態度,ご都合主義な解釈手法である。実務家は具体的、切実な利害に直面することから、往々にしてこの弊に陥りやすい。代理人たる弁護士が個々の事件で展開する解釈態度にも認められるし、結論を先取りした裁判官の判決書の中でも、また、国家賠償訴訟,行政訴訟における訟務官の主張にも往々にして見られる。
田中成明氏は法解釈論争を批判的にとらえたうで,法解釈の大人の学問たる要素を改めて重視し,法解釈の科学性が乏しいことを法解釈の研究者,実務家はそれほど卑下する必要はない,むしろ,事実と価値の総合をめざす叡智の学として現代的意義がある,という。解釈学に関わる研究者や実務家はこの言説に相当、力づけられているようである。しかし,法解釈の「知的性格」をそれほど手放しに楽観する態度には賛成しがたい。実務を支配している法解釈のご都合主義ぶりは,決して大人の学問としての成熟を示しているとは思われず、無自覚な知的頽廃というべき場合が多い。
http://blog.livedoor.jp/kazsin/archives/382040.html
法学教室2003年2月号「日本法へのカタバシス」(木庭顕東大法学部教授、ローマ法) No269,p6 同2002年4月号、No260,p6 同2002年5月号、No261,p6 同2002年8月号、No263,p6 同2002年11月号、No266,p6
ここでは誰も政治システムの範型(exemplum rei
publicae)など考えてみたこともないし、又実際にはそれは何ら妥当していないと言う。否、それを追求しなければならないと叫ぶ者がいたとしても決してそのようにはならないのだと言う。そのはずである。「を範型として」というが、範型自体が存在していないのだから。そのようなところでこの組合にだけそのようにせよと言ってもうまくいくはずがない。そこで実際に追求されるのは、ひたすらCONDUCATIOだけである。
神殿や公共広場や立派なマンションを建設するように、一人一人奨励されまたは公的に助成された。進んでする者は賞賛され、愚図愚図する者は懲らしめられた。栄誉を求めて自由競争等が生ずるのもほとんど必然である。雄弁等をむさぼりほしがるようになり、われわれの服装さえ栄誉と混同し、トガもしばしばみられるようになった。おもむくところ、屋根付き遊歩道と浴場と宴会の華美に至った。ナイッフな彼らの間ではこれが文明と呼ばれたが、実は隷従の一形態であった。(「2001年の日本、特にその法について、または潜水航海士ジョヴァンニ・ヴァッラの書簡、三巻」「アグリコラ、21巻」)
ローマの虚ろな都市ほどにさえ形態というものを持たないのである。都市は延々と砂漠のように続き、どこで切れるのかも分からない。およそ社会に基本的な意味というものを発生させる基盤がないのであるから、人々の精神的貧困はどれほどのものか。
ここには実質共和制に近い政体があると言われるが、これでどうして可能であるのか、私は直ちに疑問を持った。ヒッポダモスは都市の形態が深く国政の態様(status
rei publicae)に関わることを洞察した。日本において、市民法にとって致命的なのはあのミレトスのヒッポダモスを知らないことだ。
ここでは、小さな動作(factum)ないし言葉(verba)をそのまま繰り返すだけでよい、ただちに奇跡とも思える驚くべき結果を招くことができる。否、言葉すら要らない、小さな図像(icon)さえ識別できればよい。ただし決して間違えてはならない。何も考えずにひたすら忠実にその通りにするのだ。そこにいかなるヴァリエーションがあっても君は失敗する。(中略)いずれにしても、そこにいかなる隙間も許されず、他方間髪入れず結果が生ずる、という。この無媒介が人々の思考のすべてを支配している。
行為や結果以前に、分解し吟味し省察する、という自由は与えられない。(中略)一体どこにデモクラシー特有の批判と省察の議論の手続きがあるのか。途方に暮れる。
人々は全ての事柄において実際のものよりも代替物を好む。とりわけ似姿(imago)や画像(figura)である。これらを実在であると信じているのである。否、それも当然で、それらは実際に生きているのである。つまり、自発的に動き、働きかけ、恩恵をもたらし、危害を加える。ならばこれらが写し取った相手方の実在の方は全て不要になるのも当然である。
もっと驚くのは犯罪の種類が大変に多いというところである。私は窃盗すら犯罪と考えなかったローマ人の理論的厳密さを賞賛するが、しかしここでは何が犯罪かということについて厳密な思考が行われている形跡がない。
(高利貸しに促されると)人々は金銭に困っていないのに借金をするのである。実際、みんな豊かであるから困っているはずはない。しかし、なんと、金銭を消費する競争というものがあり、これが激烈である為に、こぞって高利貸しに殺到するというのである。およそ、競争、特にこの競争は、大変に奨励されている。彼らに与えられる説教の大半はこれに当てられていると言う。
政治的妥協の正当化をするだけの日本法
民法における債務不履行や不法行為の認定基準がいかに非論理的で妥協的なものであるかを示すために、最近に出た裁判例の一部を引用する。
4 亡Dの症状について誤った説明をした過失の有無強調したところをみればわかるように、民法の債務不履行とか不法行為の認定の判断基準は、ほぼ完全に裁判官による裸の利益考量に任されており、ただ最終的にそれを債務不履行だとか不法行為という抽象的・一般的・多義的な言葉で正当化しているだけであることが分かる。つまり、これは一見法的に正当で公平無私な議論のようにみせかけた裁判官の大岡裁きであって、多くの裁判はたいていこのようなものなのである。
(1) 原告らは,前記第2の2(2)のとおり,E医師が腫瘍マーカーの検査値が正常であるから癌の心配はないとの間違った説明を繰り返し,亡Dが胃癌早期発見のための適切な措置を執る機会を奪った旨主張するので,この主張に
ついて検討する。
(2) 原告Bは,亡Dから,E医師が血液検査の結果でも数値は正常だったから癌ができているようなことはないと述べたことを聞いたことがある旨,平成17年5月23日に原告Bと亡Dが一緒にE医師の診察を受けた際にも,
E医師が,亡Dに「マーカーの値は正常値です。癌の心配はありません」。と説明していた旨供述している(甲A3・1頁,2頁。)しかしながら,上記供述は,E医師の発言を要約したもので,これらの要約がE医師の元の発言をそのまま正確に再現したものかどうか疑問がある。また,E医師の証言(証人E33頁)によれば,E医は,進行度の低い早期の胃癌では腫瘍マーカーはそれほど高い陽性率を示すわけではないこと,腫瘍マーカーの検査結果が陽性でなかったからといって癌でないとはいえないこと(上記1(2)ア(イ),ウ参照)を熟知していることが認められる。そ,E医師は,日頃,患者に対し,腫瘍マーカーというのは癌によって作られる物質であり,そういう物質を作る癌ができると血液の中に腫瘍マーカーが増加することになること,腫瘍マーカーの数値が正常であるということは,腫瘍マーカーを作るような癌はないということであることを説明をしているが,腫瘍マーカーの検値が正常であれば癌の心配はない,などという説明をしたことは絶対にない旨供述ないし証言(乙A8・5頁,証人E33,
)しているところこの供述ないし証言に格別不自然な点はないこれらの事情を考慮すれば,E医師が,亡Dに対し,腫瘍マーカーの検査値が正常であることと癌の発症の有無との関係について医学的に誤った説明を行ったとは認め難い。
(3)
証拠(甲A3)によれば,亡D及び原告Bは,腫瘍マーカーの検査結果に関するE医師の説明から,亡Dについて癌の発症はおよそないものと思いんでいたところ,突如として手術の適応がないほどに進行した胃癌である
と診断されたことに驚き,E医師の診療行為や説明の内容について強い不満を抱いたことがうかがわれる。亡Dが進行した胃癌と診断された後短期間で死亡したことにつき原告らが無念の心情を抱いたことは理解できるところであるが,他方,医師としては,患者が精神的に安定した平穏な生活を送ることができるように,患者の不安を強めたり,不必要に患者の動揺や混乱をきたす発言を控えることも重要であると考えられるから,仮に腫瘍マーカーの検査結果に関するE医師の説明にそのような考慮に基づくものが含まれており,そのことが癌の発症の心配はないと亡Dが思いこむ一因になったとしても,E医師がそのような説明をしたこと自体が亡Dに対する診療契約上の債務不履行ないし不法行為を構成すると解することはできない。
憲法の本質2
賭博罪の憲法判例に見る日本憲法の本質
この説示から窺われることは、我が国においては、自由というものは公共の福祉という別の価値と妥協できる限りにおいて認められるものであって、自由の論理からは可能なようにみえても、その自由の結果が公共の福祉という価値を著しく害する場合には自重せよ、ということである。すなわち、憲法の根底にある価値観は、その時代の現実の下における個と全体の妥協であって、俗説にいうように、憲法が自由や人権を認めているとか、公共の福祉は自由の限界概念だ、ということでは全然ないことが分かる。日本の憲法とは、最高裁が裁量で現実的妥協点をさぐり、それを判断するものであり、日本の法律とは、官僚というお上が妥協点を探って定めたものにすぎないというわけである。そこには、特定の正義の論理が一貫しているのではなくて、複数の正義が単に現実の下に妥協しているのみである。それは、普通であれば法ではなくて政治状況にすぎないのだが、日本の憲法の場合、政治状況をそのまま強引に法とし、一般的・抽象的・多義的な文言を多用して矛盾を糊塗し、誤魔化した、矛盾とマジックの一大集塊ということができる。これに対して、学説では、公共の福祉とは人権の内在的制約であるとか(どうみてもただの強弁であり、論理的に成立していない)、確実な合憲性判定基準が存在する、などと言われているが、憲法および判例の実態にまったくそぐわないものであり、耳を傾ける必要はない。なによりも、実際の最高裁判例にこそ、憲法と我が国社会の実相が露呈しているのであって、これこそが現実的な論拠である。そして、冒頭の判例にみるように、日本憲法の実相とは、複数の正義の現実具体的妥協の一言につき、それ以外に確固とした正義の理路は一切見られないのである。
そもそも、自由の論理とは、基本的に自由を認めておき、それが両立可能とするように最低限の制限をするものである。したがって、自由の制限が妥当かどうかの基準は、その制限を排除した場合に一般的に誰かの自由が侵害されることになると言えるかどうか、である。要するに、「そんな制限がなくても誰かの自由を害することにはならないじゃないか」と言えれば、その制限は違憲であるし、それが自由の論理としてしっくりくる。もし、社会全体を慮った上で、「そのような制限を設けないと中長期的に社会がうまく回らない」との非常に抽象的な判断において自由に制限を設けるのは、自由の論理ではなくして公共の福祉の論理である。自由という論理は、中長期的な社会のバランスを省みずに現在の個の自由を尊重するところに生命があり、一方、中長期的判断において社会のバランスを重視し現在の個に制限をかけるのが公共の福祉の生命であり、両者は妥協しこそすれ本質的生命において両立はしない。自由の論理はそれによる社会的害悪に目をつぶっても個が自由であること自体を認めるのであり、公共の福祉は個の自由を殺しても全体のバランスを重視するのである。したがって自由と公共の福祉は論理的に非両立である。したがってこれを両方認める法は法として成立していない。また、人権と公共の福祉が妥協している状態が「正義」であるという論など聞いたことがないし、とうてい万人が納得する基準ではない。すなわち、その基準の下に構成された法律には、万人説得性がない。こんなものは法律として失格である。
下位法における憲法の矛盾の現れ
このように、最高法の憲法が内在的に矛盾しているので、その矛盾が法律の末端まで伝播するのは論理必然であり、民法や刑法といった、実務上よく出てくるおなじみの法律にすら、憲法の矛盾が露呈しているものが多数ある。例えば民法の
このように、現実との妥協を迫られ、法ドグマーティクでは正当化に苦しむ事例では、往々にして法令中の曖昧な概念や抽象的判断で誤魔化しており(まさに「誤魔化す」という言葉がぴったり)、上にあげた民法だけでなく、行政法、刑法、手続法などあらゆるところに、分からないように存在しているのである。例えば、行政法の核心部分に関する判例変更のあった平成20年9月10日最高裁判所大法廷判決の「市町村の施行に係る土地区画整理事業の事業計画の決定は,抗告訴訟の対象となる行政処分に当たる」という判断も、実のところ、誤魔化しなのである。以下に判決の理由部分を引用する。
次に手続法をみると、刑事訴訟法判例などは矛盾と誤魔化しの宝庫である。例えば、
というが、これは、人権の論理からすれば原則として禁止されている任意捜査における有形力の行使を強引に認めたものである。この背後にあるのは、「任意捜査においても有形力の行使を認める場合がないと警察目的が達成できない」という現実との妥協である。すなわち憲法的矛盾の露呈場面である。俗に言えば、人権保障の論理を貫徹すると、現実との調整が図れないから、ここで国家が節を屈し、制服を脱いで真っ裸になっていると思えばよい。黒字部分は、法論理としてほとんど何を言っているのか理解できず、イメージ的に解釈すれば、制服を脱いで真っ裸にはなりながらも陰部だけは手で隠している状態と言えようか。非常に恥ずかしいのだが、現実問題のため、みな目をつぶっているのである。他にも、S59.02.29 第二小法廷・決定 昭和57(あ)301 殺人(第38巻3号479頁)(高輪グリーンマンション事件)
以上に見てきたように、このようなことができるのであれば、一見実効的で合理的に見えさえすれば、それが正義ではなくても結論を正当化できる実務を既成事実化してしまい、このような解釈操作を認める法による事件処理が適正な手続といえるのかは相当に疑わしい。そもそも、法とは、根本に誰もが認める正義が控えているから万人に説得力を持つのであって、根本にあるのが人によって解釈の分かれる「現実」や「妥協」であるとすると、それはすでに法ではない(1+1を2とも3とも定めれば、数学にならない)。また、合理的とか実効的という不明確な語彙によって正義を議論するのもほとんど違法である。そのような抽象的な語彙は正義の内容を不明確にし、いくらでも自分のご都合を読み込めてしまうからであり、判決中にそのような語彙が出てくること自体、とうてい適正手続を保障しているとはいえない。これは、「この三角形の面積を求めよ」という問題に対して、数理的に論理を展開せず、私の経験によると大体1である、などという放言に等しい。私は、このように矛盾を読み込むことのできる抽象的文言や解釈操作のあり方は、適正手続の要請に背くから、憲法31条に反し違憲とすべきとの立場に立っている。とりあえず、マジックワードを使うこと自体が憲法31条に違反するから、マジックワード使用禁止法を制定し、その上でもう一度判決を書いてみろ、というのが、私の意見である。もしそれが実現したら、どうなるか。憲法および法律に内在する論理的矛盾が露呈せざるを得なくなり、価値同士は相互に喧嘩を起こし、裁判官は意味のある判決が書けずに発狂し、価値の調整がつかなくなって国家は崩壊するだろう。ハウルの動く城は、カルシファーという魔法使いがマジックワードを使って維持しているから、あんな風体でも統合が取れているのであって、このカルシファーを殺したら統合できなくなって城が崩壊する、という論理的関係にあるというわけである。今の日本の憲法は、憲法31条によりマジックワードの違憲性判断をしないことの事実的反射により維持されているだけであり、実質的には破綻しているのである。
以上をまとめると、日本法は事実上破綻しており、それを白日の下にさらすには、矛盾を切り結んでいるマジックワードを、憲法31条により焼き払えばよい。
賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであつて、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従つて、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籖に関する行為を罰する所以であつて、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。
S25.11.22大法廷判決・昭和25(れ)280 賭場開張図利(刑集第4巻11号2380頁)
この説示から窺われることは、我が国においては、自由というものは公共の福祉という別の価値と妥協できる限りにおいて認められるものであって、自由の論理からは可能なようにみえても、その自由の結果が公共の福祉という価値を著しく害する場合には自重せよ、ということである。すなわち、憲法の根底にある価値観は、その時代の現実の下における個と全体の妥協であって、俗説にいうように、憲法が自由や人権を認めているとか、公共の福祉は自由の限界概念だ、ということでは全然ないことが分かる。日本の憲法とは、最高裁が裁量で現実的妥協点をさぐり、それを判断するものであり、日本の法律とは、官僚というお上が妥協点を探って定めたものにすぎないというわけである。そこには、特定の正義の論理が一貫しているのではなくて、複数の正義が単に現実の下に妥協しているのみである。それは、普通であれば法ではなくて政治状況にすぎないのだが、日本の憲法の場合、政治状況をそのまま強引に法とし、一般的・抽象的・多義的な文言を多用して矛盾を糊塗し、誤魔化した、矛盾とマジックの一大集塊ということができる。これに対して、学説では、公共の福祉とは人権の内在的制約であるとか(どうみてもただの強弁であり、論理的に成立していない)、確実な合憲性判定基準が存在する、などと言われているが、憲法および判例の実態にまったくそぐわないものであり、耳を傾ける必要はない。なによりも、実際の最高裁判例にこそ、憲法と我が国社会の実相が露呈しているのであって、これこそが現実的な論拠である。そして、冒頭の判例にみるように、日本憲法の実相とは、複数の正義の現実具体的妥協の一言につき、それ以外に確固とした正義の理路は一切見られないのである。
そもそも、自由の論理とは、基本的に自由を認めておき、それが両立可能とするように最低限の制限をするものである。したがって、自由の制限が妥当かどうかの基準は、その制限を排除した場合に一般的に誰かの自由が侵害されることになると言えるかどうか、である。要するに、「そんな制限がなくても誰かの自由を害することにはならないじゃないか」と言えれば、その制限は違憲であるし、それが自由の論理としてしっくりくる。もし、社会全体を慮った上で、「そのような制限を設けないと中長期的に社会がうまく回らない」との非常に抽象的な判断において自由に制限を設けるのは、自由の論理ではなくして公共の福祉の論理である。自由という論理は、中長期的な社会のバランスを省みずに現在の個の自由を尊重するところに生命があり、一方、中長期的判断において社会のバランスを重視し現在の個に制限をかけるのが公共の福祉の生命であり、両者は妥協しこそすれ本質的生命において両立はしない。自由の論理はそれによる社会的害悪に目をつぶっても個が自由であること自体を認めるのであり、公共の福祉は個の自由を殺しても全体のバランスを重視するのである。したがって自由と公共の福祉は論理的に非両立である。したがってこれを両方認める法は法として成立していない。また、人権と公共の福祉が妥協している状態が「正義」であるという論など聞いたことがないし、とうてい万人が納得する基準ではない。すなわち、その基準の下に構成された法律には、万人説得性がない。こんなものは法律として失格である。
下位法における憲法の矛盾の現れ
このように、最高法の憲法が内在的に矛盾しているので、その矛盾が法律の末端まで伝播するのは論理必然であり、民法や刑法といった、実務上よく出てくるおなじみの法律にすら、憲法の矛盾が露呈しているものが多数ある。例えば民法の
第九十条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。は、民法典中地位の高い条文だが、これらからしてすでに理解に苦しむ。まず、第九十条は「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。」と書いてあるが、一体、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項」の意義は何か。ほとんど曖昧不明確であり、このような文言が法律に使われ、しかも、契約を無効とする根拠に使われてよいものかと思う。また、九十一、九十二条には「法令中の公の秩序に関しない規定」と書いてあるが、一体、「法令中の公の秩序に関しない規定」とはどれなのか、これもまた明確でない(この種の規定を強行規定というらしいが、学説上は、どれが強行規定かはいちいち解釈に任されるという)。実のところ、このように曖昧な文言を裁判官の裁量で解釈したり、強行規定を解釈で決めるという技術は、憲法の矛盾を糊塗するための巧妙なテクニックであり、あえてこのようにしているのである。たとえば、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項」の意義を個人的利益と社会的利害の総合考慮で決めるとするのが判例の態度だが、このような判断の仕方によって、自由と公共の福祉という矛盾した価値を妥協することを正当化できるのである。なぜなら「総合考慮」という概念が曖昧不明確なので、実質はただの妥協に過ぎない判断もこの魔法の言葉で法ドグマーティクとして正当なものとして主張できるからである。また、どの法令が強行規定なのかを解釈で決めるのも同様であり、これは「公の秩序に関する」という曖昧なフレーズを利用しているのである。
(任意規定と異なる意思表示)
第九十一条 法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関しない規定と異なる意思を表示したときは、その意思に従う。
(任意規定と異なる慣習)
第九十二条 法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。
このように、現実との妥協を迫られ、法ドグマーティクでは正当化に苦しむ事例では、往々にして法令中の曖昧な概念や抽象的判断で誤魔化しており(まさに「誤魔化す」という言葉がぴったり)、上にあげた民法だけでなく、行政法、刑法、手続法などあらゆるところに、分からないように存在しているのである。例えば、行政法の核心部分に関する判例変更のあった平成20年9月10日最高裁判所大法廷判決の「市町村の施行に係る土地区画整理事業の事業計画の決定は,抗告訴訟の対象となる行政処分に当たる」という判断も、実のところ、誤魔化しなのである。以下に判決の理由部分を引用する。
そうすると,施行地区内の宅地所有者等は,事業計画の決定がされることによって,黒字部分が核心である。行政事件訴訟法3条2項にいう「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」という極めて抽象的な文言の解釈として、権利救済にとって「合理的」である場合に行政事件訴訟法の趣旨からして法3条2項の処分に当たる、としているのである。つまりこれは結論からの逆算で法規の文言を解釈しているのであり、それを「合理的」という抽象的文言で誤魔化しているのである。ここではどのような憲法的矛盾が現れているかというと、まず、行政法における「処分」の客観的意義が定められていない点が人権保障の論理に反している。自由保障の論理からすれば、人権侵害を伴う処分の意義は客観的に定まっていなければならないのに、これが定められておらず、個々の法律の趣旨目的が処分性の意味を与えるとし、その目的論的解釈の操作の中で、合理性とか相当性とか実効性といった抽象的文言を用いて、憲法的矛盾を隠して処理しているのである。
前記のような規制を伴う土地区画整理事業の手続に従って換地処分を受けるべ
き地位に立たされるものということができ,その意味で,その法的地位に直接的な
影響が生ずるものというべきであり,事業計画の決定に伴う法的効果が一般的,抽
象的なものにすぎないということはできない。
イもとより,換地処分を受けた宅地所有者等やその前に仮換地の指定を受けた
宅地所有者等は,当該換地処分等を対象として取消訴訟を提起することができる
が,換地処分等がされた段階では,実際上,既に工事等も進ちょくし,換地計画も
具体的に定められるなどしており,その時点で事業計画の違法を理由として当該換
地処分等を取り消した場合には,事業全体に著しい混乱をもたらすことになりかね
ない。それゆえ,換地処分等の取消訴訟において,宅地所有者等が事業計画の違法
を主張し,その主張が認められたとしても,当該換地処分等を取り消すことは公共
の福祉に適合しないとして事情判決(行政事件訴訟法31条1項)がされる可能性
が相当程度あるのであり,換地処分等がされた段階でこれを対象として取消訴訟を
提起することができるとしても,宅地所有者等の被る権利侵害に対する救済が十分
に果たされるとはいい難い。そうすると,事業計画の適否が争われる場合,実効的
な権利救済を図るためには,事業計画の決定がされた段階で,これを対象とした取
消訴訟の提起を認めることに合理性があるというべきである。
(2)
以上によれば,市町村の施行に係る土地区画整理事業の事業計画の決定
は,施行地区内の宅地所有者等の法的地位に変動をもたらすものであって,抗告訴
訟の対象とするに足りる法的効果を有するものということができ,実効的な権利救
済を図るという観点から見ても,これを対象とした抗告訴訟の提起を認めるのが合
理的である。したがって,上記事業計画の決定は,行政事件訴訟法3条2項にいう
「行政庁の処分その他公権力の行使に当たる行為」に当たると解するのが相当であ
る。これと異なる趣旨をいう最高裁昭和37年(オ)第122号同41年2月23日
大法廷判決・民集20巻2号271頁及び最高裁平成3年(行ツ)第208号同4
年10月6日第三小法廷判決・裁判集民事166号41頁は,いずれも変更すべき
である。
次に手続法をみると、刑事訴訟法判例などは矛盾と誤魔化しの宝庫である。例えば、
S51.03.16 第三小法廷決定 昭和50(あ)146 道路交通法違反、公務執行妨害(第30巻2号187頁)はこれを本件についてみると、A巡査の前記行為は、呼気検査に応じるよう被告人を説得するために行われたものであり、その程度もさほど強いものではないというのであるから、これをもつて性質上当然に逮捕その他の強制手段にあたるものと判断することはできない。また、右の行為は、酒酔い運転の罪の疑いが濃厚な被告人をその同意を得て警察署に任意同行して、被告人の父を呼び呼気検査に応じるよう説得をつづけるうちに、被告人の母が警察署に来ればこれに応じる旨を述べたのでその連絡を被告人の父に依頼して母の来署を待つていたところ、被告人が急に退室しようとしたため、さらに説得のためにとられた抑制の措置であつて、その程度もさほど強いものではないというのであるから、これをもつて捜査活動として許容される範囲を超えた不相当な行為ということはできず、公務の適法性を否定することができない。したがつて、原判決が、右の行為を含めてA巡査の公務の適法性を肯定し、被告人につき公務執行妨害罪の成立を認めたのは、正当というべきである。
捜査において強制手段を用いることは、法律の根拠規定がある場合に限り許容されるものである。しかしながら、ここにいう強制手段とは、有形力の行使を伴う手段を意味するものではなく、個人の意思を制圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段を意味するものであつて、右の程度に至らない有形力の行使は、任意捜査においても許容される場合があるといわなければならない。ただ、強制手段にあたらない有形力の行使であつても、何らかの法益を侵害し又は侵害するおそれがあるのであるから、状況のいかんを問わず常に許容されるものと解するのは相当でなく、必要性、緊急性などをも考慮したうえ、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容されるものと解すべきである。
というが、これは、人権の論理からすれば原則として禁止されている任意捜査における有形力の行使を強引に認めたものである。この背後にあるのは、「任意捜査においても有形力の行使を認める場合がないと警察目的が達成できない」という現実との妥協である。すなわち憲法的矛盾の露呈場面である。俗に言えば、人権保障の論理を貫徹すると、現実との調整が図れないから、ここで国家が節を屈し、制服を脱いで真っ裸になっていると思えばよい。黒字部分は、法論理としてほとんど何を言っているのか理解できず、イメージ的に解釈すれば、制服を脱いで真っ裸にはなりながらも陰部だけは手で隠している状態と言えようか。非常に恥ずかしいのだが、現実問題のため、みな目をつぶっているのである。他にも、S59.02.29 第二小法廷・決定 昭和57(あ)301 殺人(第38巻3号479頁)(高輪グリーンマンション事件)
右のような事実関係のもとにおいて、昭和五十二年六月七日に被告人を高輪警察署に任意同行して以降同月一一日に至る間の被告人に対する取調べは、刑訴法一九八条に基づき、任意捜査としてなされたものと認められるところ、任意捜査においては、強制手段、すなわち、「個人の意思を抑圧し、身体、住居、財産等に制約を加えて強制的に捜査目的を実現する行為など、特別の根拠規定がなければ許容することが相当でない手段」(最高裁昭和五〇年(あ)第一四六号同五一年三月一六日第三小法廷決定・刑集三〇巻二号一八七頁参照)を用いることが許されないということはいうまでもないが、任意捜査の一環としての被疑者に対する取調べは、右のような強制手段によることができないというだけでなく、さらに、事案の性質、被疑者に対する容疑の程度、被疑者の態度等諸般の事情を勘案して、社会通念上相当と認められる方法ないし様態及び限度において、許容されるものと解すべきである。なども有名である。黒字部分を見れば分かるが、これも制服を脱いで陰部だけ隠しているようなものである。「事案の性質、被疑者に対する容疑の程度、被疑者の態度等諸般の事情を勘案して、社会通念上相当と認められる方法ないし様態及び限度」などといってしまったら、ほとんど裸の利益考量ではないか。
以上に見てきたように、このようなことができるのであれば、一見実効的で合理的に見えさえすれば、それが正義ではなくても結論を正当化できる実務を既成事実化してしまい、このような解釈操作を認める法による事件処理が適正な手続といえるのかは相当に疑わしい。そもそも、法とは、根本に誰もが認める正義が控えているから万人に説得力を持つのであって、根本にあるのが人によって解釈の分かれる「現実」や「妥協」であるとすると、それはすでに法ではない(1+1を2とも3とも定めれば、数学にならない)。また、合理的とか実効的という不明確な語彙によって正義を議論するのもほとんど違法である。そのような抽象的な語彙は正義の内容を不明確にし、いくらでも自分のご都合を読み込めてしまうからであり、判決中にそのような語彙が出てくること自体、とうてい適正手続を保障しているとはいえない。これは、「この三角形の面積を求めよ」という問題に対して、数理的に論理を展開せず、私の経験によると大体1である、などという放言に等しい。私は、このように矛盾を読み込むことのできる抽象的文言や解釈操作のあり方は、適正手続の要請に背くから、憲法31条に反し違憲とすべきとの立場に立っている。とりあえず、マジックワードを使うこと自体が憲法31条に違反するから、マジックワード使用禁止法を制定し、その上でもう一度判決を書いてみろ、というのが、私の意見である。もしそれが実現したら、どうなるか。憲法および法律に内在する論理的矛盾が露呈せざるを得なくなり、価値同士は相互に喧嘩を起こし、裁判官は意味のある判決が書けずに発狂し、価値の調整がつかなくなって国家は崩壊するだろう。ハウルの動く城は、カルシファーという魔法使いがマジックワードを使って維持しているから、あんな風体でも統合が取れているのであって、このカルシファーを殺したら統合できなくなって城が崩壊する、という論理的関係にあるというわけである。今の日本の憲法は、憲法31条によりマジックワードの違憲性判断をしないことの事実的反射により維持されているだけであり、実質的には破綻しているのである。
以上をまとめると、日本法は事実上破綻しており、それを白日の下にさらすには、矛盾を切り結んでいるマジックワードを、憲法31条により焼き払えばよい。
安全配慮義務なんて要らない
なぜ自由な社会のはずなのに安全配慮義務などがあるのだろうか。2当事者は自由に契約して双方満足すればいいわけで、契約書の中に特別に安全配慮義務を明記していればともかく、そんなものもないのに信義則などと言って安全配慮義務を強制的に課すのは、自由社会の成立に必要でもない上に、不必要に自由を侵害するものであって、違憲なはずである。また、契約約款などが存在し、これによって事実上安全配慮義務を強制する実務も違憲のはずである。そういうものは、自由社会に必要でもないし、自由を侵害するものであって、積極的に排除しなければならない。安全配慮義務の根拠となっている権利の社会化という風潮は昭和初期に出たようで、確かにドイツなどにも、害意のある権利行使は封じるという法律があるが、ドイツの例に分かるように、あくまで害意という要件を備えた場合に無効にするというふうに明確なラインを区切ってあり、日本の宇奈月温泉事件最高裁判決のように、害意に加えて社会的利害を総合考慮すると言う枠組みは、漠然としており、自由の論理に違反して無効である。実は、日本の民法は、権利の社会化などと美辞麗句を言って、これによって公益との妥協を誤魔化しているのである。しかし、注意深く論理を追えば分かるように、憲法が自由を謳っているのに、権利の範囲を社会的利害と付き合わせて総合考慮で決するという結論は、矛盾することが明白である。また、社会的利害の総合考慮で、安全配慮義務などといった義務を創設することも自由の論理に違反する。つまりこれは個人と全体の妥協というような日本の重苦しい空気をあたかも論理的であるかのように塗り潰したものにすぎない。
私が最高裁ならこう判例変更する
最判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁は「国が、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るため、その社会経済政策の実施の一手段として、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることは、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、憲法の禁ずるところではない。社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかはない。その判断するにあたっては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であって、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがって、個人の経済活動に対する法的規制措置については、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲とすることができる。」と述べているが、かかる基準は是認できない。理由は次のとおりである。
そもそも、憲法が認めている自由権とは、個々人が自由であるための最低限の条件について立法府において深く思索し、その結果についてのみ立法できるとする厳格性を保障することではじめて成立する。すなわち、立法には、その条件を排除すると個々人の自由が発揮されないという厳格な関係が必要であって、その条件を排除しても特に個々人の自由が喪失されるわけではないと言える立法は、自由権の論理に反し、違憲と解するのが相当である。ところが、前記の最高裁判例は、自由の論理に立脚する憲法が厳に禁じているはずの政策的規制措置について「憲法の禁ずるところではない」と誤解し、しかもその規制措置が合憲かいなかの判断基準について「目的達成のために必要かつ合理的」などという極めてあいまいな言葉を用いており、さらに違憲性判定基準について「立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限る」とするなど、立法に対する違憲性判定基準として厳格性を備えているとは言えない。かかる最高裁判例は、憲法第三章が認めている自由権の論理を正解せず、畢竟破綻した独自の見解を述べているにすぎないのであって、不当であるから、これを判例変更すべきものと認める。
かかる観点から刑法199条をみると、もし殺人を禁圧しないならば、殺人が殺人を呼び、社会は壊滅に至るのであって、所期する自由社会と致命的に矛盾するから、同条の存在は憲法の論理に合致し、合憲というべきである。次に、民法167条の時効制度について考えると、これは強行規定と解されているが、そもそもある債権を何十年にもわたって行使するかしないかは個人の自由であって、これを10年で消滅させなくても、自由社会と矛盾しないどころか、10年の消滅時効を強いることにより、個人の経済の自由が侵害されており、自由と矛盾さえしている。したがって、同条は憲法の論理に背き、違憲と言うべきである。さらに、民法94条2項についてみると、これは任意規定であるが、1項で通謀虚偽表示は無効であるとしておきながら、2項において無効なはずの通謀虚偽表示を有効と扱っている点が矛盾しており、論理が成立していないから、憲法解釈を待つまでもなく当然無効と解すべきである。
そもそも、憲法が認めている自由権とは、個々人が自由であるための最低限の条件について立法府において深く思索し、その結果についてのみ立法できるとする厳格性を保障することではじめて成立する。すなわち、立法には、その条件を排除すると個々人の自由が発揮されないという厳格な関係が必要であって、その条件を排除しても特に個々人の自由が喪失されるわけではないと言える立法は、自由権の論理に反し、違憲と解するのが相当である。ところが、前記の最高裁判例は、自由の論理に立脚する憲法が厳に禁じているはずの政策的規制措置について「憲法の禁ずるところではない」と誤解し、しかもその規制措置が合憲かいなかの判断基準について「目的達成のために必要かつ合理的」などという極めてあいまいな言葉を用いており、さらに違憲性判定基準について「立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限る」とするなど、立法に対する違憲性判定基準として厳格性を備えているとは言えない。かかる最高裁判例は、憲法第三章が認めている自由権の論理を正解せず、畢竟破綻した独自の見解を述べているにすぎないのであって、不当であるから、これを判例変更すべきものと認める。
かかる観点から刑法199条をみると、もし殺人を禁圧しないならば、殺人が殺人を呼び、社会は壊滅に至るのであって、所期する自由社会と致命的に矛盾するから、同条の存在は憲法の論理に合致し、合憲というべきである。次に、民法167条の時効制度について考えると、これは強行規定と解されているが、そもそもある債権を何十年にもわたって行使するかしないかは個人の自由であって、これを10年で消滅させなくても、自由社会と矛盾しないどころか、10年の消滅時効を強いることにより、個人の経済の自由が侵害されており、自由と矛盾さえしている。したがって、同条は憲法の論理に背き、違憲と言うべきである。さらに、民法94条2項についてみると、これは任意規定であるが、1項で通謀虚偽表示は無効であるとしておきながら、2項において無効なはずの通謀虚偽表示を有効と扱っている点が矛盾しており、論理が成立していないから、憲法解釈を待つまでもなく当然無効と解すべきである。
時効は自由にとって必要ではない
時効とは自由の必要十分条件ではない。なぜなら時効制度がなくても自由は成り立つからである(債権が10年で消滅時効にかからなくても自由経済は十分成り立つ)。したがって、自由社会では、本来、時効制度はあってはならない。成員が一種の共通目的として厳しく認めた場合にのみ置けるものである。しかも、自由の必要十分条件以上の縛りを設ける場合は、結果として自由を侵害する恐れがあるのだから、慎重でなければならず、軽々に自由を侵害するような立法ができないような仕組みが必要である。ところが日本の憲法判例は、「国が、積極的に、国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るため、その社会経済政策の実施の一手段として、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることは、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、憲法の禁ずるところではない。社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかはない。その判断するにあたっては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であって、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがって、個人の経済活動に対する法的規制措置については、裁判所は、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲とすることができる。」(小売市場距離制限事件、最判昭和47年11月22日刑集26巻9号586頁)などとして、国会が広範な裁量権をもって自由を犠牲にする立法をすることができるとしており、これ自体が自由の論理からは認められない。なぜならこれは、国会が様々な資料を集めてそのような立法をすることが適切妥当と判断し、それが異常でなければ違憲にはならないということであり、これでは国会によっていかようにも自由を侵害する立法がなされてしまう可能性があり、厳格性に欠けるからである。また「必要かつ合理的」という抽象的な文言では、自由侵害に対する歯止めとしては相当弱い。このように何ら厳格性も論理性の無い区切りによって自由の必要十分条件以上の制限を設けられるとすれば、自由は保障されていないのも同然である。時効制度なども上の憲法判例の基準にしたがって必要かつ合理的と判断されて置かれているのであろうが、そもそもそのような判断枠組みが自由の論理に反するので無効というべきであるし、その下に置かれた時効制度も正当性があるとはいえない。したがって、時効の論理は破綻しているのである。それにもかかわらずなぜ時効というものが社会と調和しているのだろうか。それは、そもそも憲法の論理が、実は自由でも公共の福祉でもなく、その現実的妥協を正義としているからである。実際に人権と公共の福祉は相矛盾するのだから調和するはずがなく、調和しなければ現実的な妥協しかあるまい。時効制度も民法の基底に流れる私益と公益の一種の妥協に出ているものである。ゆえに時効制度の終局の根拠は日本の現実であり、妥協であり、それ以外に何もない。債権の消滅時効が10年であるというのは、何か普遍的な正義に基づくのではなくて、日本の現実の都合なのである。債権の消滅時効を10年とすることが経済産業省と財界の折衝等で勝手に「合理的」と判断されたので10年と定めているだけで、論理にもなっていないものを論理になっていると強弁し、「自由とみんなの幸せを願って10年とした」、とほざいているだけである。自由と公共の福祉を妥協させることで自由を殺していながら、既成事実(小学校から続く滔々たる洗脳教育と矛盾の押し付けと正当化)を援用して、殺していないと強弁しているのが日本の大人なのである。
支離滅裂な民法
民法96条1項には、詐欺または強迫による意思表示は取り消すことが出来る、と書いてある。これは、詐欺や強迫による意思表示が、自由意思による円満な意思表示ではなく、自由意思による意思の合致があることが合理的という趣旨で置かれているものである。ところが、3項をみると、この取り消しは善意の第三者に対抗できない、と書いてある。この対抗できない、というのは、取り消したと主張できない、ということであろうが、この趣旨は、取引の安全と説明されている。したがって、この背後で衝突しているのは、実は取引の静的安全と動的安全である。しかし、静的安全と動的安全は論理的に矛盾する。つまり、静的安全を保護すると動的安全が害され、動的安全を保護すると静的安全が害される。したがって、民法96条1項と3項は論理的に整合していないことが明らかになる。そもそも民法93条から96条は自由で円満な意思表示の保護しており、また民法の原則もそうなっているのであるが、取引の安全を保護するというのは民法の原則にはなっていない。にもかかわらず、96条3項のような形でこっそりと取引の安全を図る条文を入れるというのは反則技である。しかも巧妙なことに、「対抗できない」という手続法的な表現にして、1項との表層的矛盾を回避しようとしているが、根底においては、取引の静的安全と動的安全が矛盾を来たしているのであって、民法96条は全体として非論理的な規定と言わざるを得ない。そういうふうにみていくと、93条は、真意でないことを知ってした意思表示は原則として有効とする、という規定も、実は取引の動的安全を図っており、静的安全を害している。ここも論理的に精密に規定された形跡が無く、適当に妥協させて強引に正当化していることが分かる。94条1項と2項の関係についても、96条の例と同様に矛盾である。95条は、要素の錯誤があったときは無効とする、と書いてあるが、これは論理的に正しい(ただし要素の錯誤の解釈について昔の判例で小難しい解釈が展開されており、せっかくの論理的規定が語句の妥協的解釈で骨抜きにされている)。強行規定をみると、90条などは、このような曖昧なワーディングで契約を無効にするのは自由の論理に反するし、91条、92条にいう公の秩序に関する規定などというものが存在するのでは、これもまた自由の論理に反するので、憲法22条との関係で合憲性が疑わしいものが多い。飛んで物権編の176条をみると、物権の設定移転は「当事者の」意思表示のみにより効力を生じる、と書いてあるのに、192条では、当事者以外の他人の物権支配にかかる物を当事者間で取引し、平穏公然善意無過失という一種の信義則的な付帯条件の下に動産占有を開始すると、その動産の物権を即時取得する、などと書いてある。176条と192条が整合しないわけである。おそらく、176条では、調子こいて私的自治を認めたが、例によって動的安全が恋しくなり、平穏公然善意無過失という公益的要件で誤魔化して即時取得を認めたのではないか。このような矛盾などは荒唐無稽すぎて少しでも論理性のある者が見れば即座に分かるのだが、実は根本において憲法が破綻しているので、結局はそこに尻を持ち込まれることになるのだろう。憲法を見てください、最初から妥協だと書いてあるじゃないですか、論理的に整合しているなんて書いてありませんよ、と。まあこんなことに気づくのはすでに年老いてからであるのが一般なので、誰もそれ以上のことは追及できないのである。このように、民法には何を言っているのか理解できないものが多数入っており、実は背後で矛盾を起こしているというものばかりなのである。このような支離滅裂なルールによって経済社会が動いており、それに誰も疑問を提出しないという知的退廃ぶりには、おぞましいものがある。
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